역시 이시다 유스케상의 홈피에서 퍼왔습니다.
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2.本当のやさしさ (中国)
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中国人の自転車ツアーの若 者たちと、しばらくいっしょに走 ることになった。 なぜそうなったのか、このあ たりの事情はちょっとややこし いので、割愛する。
ぼくがここに書きたいのは、 別のことだ。
ツアーのメンバーの中にナ スルンバットというモンゴル族 の男がいた。 |
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非常に親切な男なのだが、その親切が空回りして、おせっかいで暑苦しい印象を与える
タイプだった。 クセの強いぼさぼさの髪に迷彩色のズボンといった少々やぼったい外見もそ
の印象を強めていた。
ある日のことだ。休憩地点に着くと、先に着いていた彼が走ってきて、 ぼくの自転車を奪
い取るように持って行こうとした。彼からすれば駐輪に最適な場所まで自分が自転車を運
び、ぼくに早く休憩してもらいたかったのだろうが、その所作はあまりに一方的で強引に思
えた。
「いいよ、自分でやるから」
と断ったのだが、彼はその言葉にまったく耳を貸さず、ぼくを押しのけるようにして、力ずく
で自転車を奪おうとする。カチンときて、気がつけば声を荒らげていた。
「自分でやるからいいって!」
ナスルンバットはびっくりした顔でぼくを見たあと、「ドイブチイ(ごめん)」と言った。気まず
い空気が流れた。
その夜、宿で荷物を整理しているとナスルンバットに呼ばれた。彼はぼくをひとつの部屋
に連れていき、そのあと水の入った小さなたらいを持ってきた。砂漠地帯のこの辺りは宿に
シャワーはなく、溜め水をたらいに汲んだもので体を洗う。 彼はぼくのためにその水を用意
してくれたのだ。
ナスルンバットの世話焼きに慣れきっていたぼくは心のこもらない声で「謝々(ありがと
う)」とだけ言った。彼はニコッと笑って部屋から出ていった。
荒野を1日中走って体はほこりと汗でべとべとである。顔を洗っただけでたらいの水はに
ごった。次にたらいの中に立ち、タオルに水をふくませながら体を洗っていく。すべて終わる
ころには水は真っ黒になっていた。
ナスルンバットの声がドアの向こうから聞こえた。彼はぼくの行水が終わるのを部屋の外
で待っていたようだ。急いで服を着てドアを開けると、ナスルンバットは微笑んで立ってい
る。待たせてゴメン、と言うと、彼は慌てたように「ぜんぜんかまわないよ」といった感じで手
をぶんぶん横に振り、ぼくと入れ替わるように部屋に入った。
その後、洗濯ものを抱えて水場に行った。ところが、溜め水が入っているはずのドラム缶
をのぞくと水がほとんどない。ぼくはハッとなって、さっきの部屋に走って戻った。ドアを開け
ると信じられない光景が目に飛び込んできた。ナスルンバットは上半身裸になり、ぼくの洗
い終えた真っ黒な水で顔を洗っていたのだ。
「おいっ!」
ぼくは思わず叫んだ。彼はその声で洗顔の手を止め、こっちを振り返った。そしてぼくを見
ると、顔から水をしたたらせながらニコッと笑った。体の奥から何かが突き上げた。
「ダン、イーシャ(ちょっと待ってて)!」
ぼくはそう言い捨て、外に飛び出した。ほうぼうを駆けまわり、なんとかたらい1杯分の水
をかき集め、彼のところに持っていった。彼はやはり笑顔で「謝々」と言った。
*
優しさについて、ことあるごとに考える。
おそらく、自分は冷淡なタイプの人間ではないと思う。だが、自分の優しさにはどこか疑問
を感じている。それは本当の優しさだろうか?、と。 レストランで女性に奥の席を勧めたり、
友人の悩みを理解者ぶった顔で聞いてあげることは、どの程度まで相手のための行為な
のか?
確実に言えるのは、ぼくにはナスルンバットのような真似はどうあってもできない、というこ
とだ。
旅をしていると、自己犠牲をも厭わない優しさに会うことがある。地域によっては客人をも
てなす行為を「親切心」からというよりは、「習慣」として行う所もあるだろう。ナスルンバット
のモンゴル族にもそういう習慣があって、彼はごく自然にぼくに接したのかもしれない。で
も、だからといってこちらもその優しさを当たり前のように受取るのではなく、一つ一つを克
明に自分の中に刻み付けていきたい。寒さに震えている人に、自分の着ている服を無意識
で与えられるような優しさが、自分自身に芽生えるように。